池田憲章のいいシーン見つけた!

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【第5回/日常生活をつみあげていくドラマ作り】
アニメージュ/1982年5月号

●ルーシーとケイトのため息がよかった
『南の虹のルーシー・出発の前夜』


◇コアラとルーシー
100年前のオーストラリアを舞台にした開拓物語、といえばかなり波乱万丈のストーリーを予想するだろう。ところがこの『南の虹のルーシー』は、登場人物たち、とくにルーシー、ケイト、クララの3姉妹を中心にしながら、たんたんとした日常描写を重ねていくことで、物語の世界がうかびあがってくるという、日本アニメならではの作品になっている。SFロボットアニメをたくさん見すぎた私たちは、すでに劇的な情況設定や“地球、人類の運命”といった壮大なテーマに慣らされすぎている。こうしたダイナミックな展開をもったアニメとはまったくちがったアプローチの作品、その典型ともいえるのが、日本アニメの名作路線なのではないか。
今月は『南の虹のルーシー』を題材に、アニメにおける“日常のドラマ空間”とはなにか、というテーマについて考えてみた。
アデレードという街への出発前日、ルーシーがほしがっていたコアラを姉のクララがみつけ、その知らせで、ルーシーとケイトが小川のほとりにかけつけてくる。しかし、高い木の上のコアラは、女の子にとっては手の届く相手ではない。動物大好きのルーシーは、どうしてもコアラをつかまえたい。
ケイトはルーシーをなだめるようにさとす。捕えたあと、アデレードまで連れていく手段がないからだ。荷物は荷車にいっぱいだし……。
「抱いていくとしたら」
とルーシーがコアラを抱くまねをしても無駄なこと。木を見上げながらルーシーはいう。
「アデレードにもきっといるわね」
「ここにいたんだから、いると思うわ」
とケイトが答える。そして、ふたり、ため息をつく。
このシーン、出発前日のなに気ないエピソードなのだけれど、ケイトとルーシーがコアラをあきらめきれずに、なおもじっと木の上をみつめながら、ふたり同時にフーッと“ため息”をつくところがいい。ふたりの小さな落胆ぶりが、ユーモアさえも感じさせている。
この回のラストシーンのルーシーのセリフもそうで、
「お姉ちゃん、アデレードにもコアラはいるわね」
というひとり眠れぬルーシーのつぶやきに、この小さな女の子の心がちゃんと描き出されているのだ――。アデレードという未知の場所に出発する前日の期待と不安を、これだけさりげなく表現できるということに、改めて気づかされるのである。
いま私たちが日常生活で感じる喜怒哀楽の感情を、アニメのキャラクターの人間性をていねいに追いかけていくことで、結晶化させようとする手法。『南の虹のルーシー』にたずさわっているスタッフが試みているドラマの描き方とは、こういう種類のアプローチにほかならないと思う。
100年まえのオーストラリアという情況は、あくまでも背景にしりぞき、ルーシーたち3姉妹を中心にした家族とほかの移民との交流が、日常的エピソードでつなげられていく。ロボットアニメとはまたちがったドラマチックな描き方が成立し得るのだということを『ルーシー』のスタッフは確信しているにちがいないと思う。

◇日本アニメのカラーとは
日本アニメの名作路線は、高畑勲監督の『ハイジ』『母をたずねて三千里』などの傑作によって、そのドラマ作法を確立したといってもかまわないだろう。高畑、宮崎駿が去ったあとにも、その伝統は脈々としてうけつがれているようだ。
今回の『南の虹のルーシー』が少し変わっているのは、この物語がルーシーの姉ケイトの思い出として語られていることだろう。この部分がうまく描かれていけば、この物語の味わいはさらに深まっていくのではないだろうか。
さらにいえば、今回とりあげた第8話では長女クララとその恋人ジョンの別れの物語が描かれている。クララは、日本アニメ名作路線ではひさびさに登場した、結婚してもおかしくない年齢に達したキャラである。個人としての自覚がはっきり芽ばえたいいキャラなので、これからのシリーズ展開にも、期待がもてそうだ。
また、このクララの声をあてている玉川砂記子をふくめ、ルーシーとケイトの松島みのり、吉田理保子が、じつに伸びやかに、このふたりの感情を表現していることを忘れてはならない。
“作為的なドラマ作り”を排して、人間の日常生活のさまざまな感情を、ありふれたエピソードを基本として、みごとにドラマにしてしまう。日本アニメというプロダクションの作品には、いつもそんなカラーがあった。その最も新しい代表作として『南の虹のルーシー』に、これからもマイペースでがんばってほしい。
(文中敬称略)
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